ロンドン・フィキシングの黎明(後編)
スタンダードバンク東京支店長の池水雄一氏が「池水雄一のゴールドディーリングのすべて2」で、先週に続き、ロンドンFix価格の歴史とメカニズムを解説しています。
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今週は、「ロンドン・フィキシングの黎明(前編)」の続きです。
ゴールドフィキシングは1914年以前は非公式なもので、第一次世界大戦後のごくわずかの間に現在の形に進化してきたと考えられていましたが、最近見つかった1907年4月20日のWall Street Journalの記事によれば、この当日のフィキシングはこれまで考えられていたよりもはるかに「公式」なものだったようです。これによると13:45 分、ちょうど現在のシルバーフィキシングの時間にSharps & Wilkins のに集まり、ほぼ現在と同じようなやり方で行われていたとのこと。1919年の9月12日は新たなスタートではなく、フィキシングの復活ということになります。
第一次世界大戦後ロンドン・ゴールド・マーケットがどのような方向に行くべきかという課題は、Bank of England(BOE:英国中央銀行)がポンドとマーケットとしてのロンドンの国際的な重要性を再興したいという願望と密接に結びついていました。まずはロンドンのゴールドマーケットの重要性を1914年以前の地位を守り続けることが鍵になるということで、南アのゴールドは必ずロンドンを経由するように 南アの鉱山会社各社と交渉、そしてそのゴールドがロンドンに到着後、鉱山会社の代理人であるN.M.Rothschild & Sons が買い手を捜すということにしました。
そしてその次の段階として、どのように南アのゴールドの買い手を探すかということに関して、ロスチャイルドは自社で直接最終需要家に売却したいという考えだったようですが、最終的にBOEはロンドンにおいてブローカー(貴金属商)に売却するというものでした。ゴールドは南アからロンドンに集積してくるのみならず、販売もロンドンにおいて行われるということです。またフィキシングによる「一本値」の制度も維持され、当時のBOE総裁はこう評しました。ロン ドンは「すべての売り手が自分にとってもっとも有利な価格でゴールドを売れることがわかるのみならず、すべての買い手が世界でもっともいい価格でゴールドを調達できることが明からな開かれたマーケット」である、と。
フィキシングこうして1919年に再開され、最初の数年間はMocatta & Goldsmidだけが参加していたようですが、1925年までにすべてのメンバーがフィキシングに出席するようになり、1926年にはJohnson & Matthey & Co.がフィキシングメンバーに追加されました。
現在の形になるためのほかの要素はゆっくりと変化していたようです。電話は1923年頃までに設置された模様で、最初はすべてのブローカーに対して一台 しかありませんでした。そのため電話を使うためにいつも順番を待たねばなりませんでした。1931年にポンドが金との兌換をはずれたときに、マーケットは 大いに乱れましたが、おそらくその頃各社に一台の電話が設置されたと思われます。そしてちょうどこの頃、それ以降ずっと変わらずフィキシングの場となる N.M. Rothschild & Sonsのオフィスに場所を定めることになります。その頃この会議室はMr. Anothony’s Roomと呼ばれていたようです。
1930年代初頭には現在のフィキシングの要素はすべて揃い、それ以降、第二次世界大戦で中断したものの戦後1954年には再開され現在に至っています。現在のフィキシングメンバーは、Barclays Capital、Deutsche Bank、ScotiaMocatta、HSBC、Societe Generaleの5社です。昔のメンバーはなくなったり、他の会社に吸収されたりしてその名前がなくなってしまいました。唯一まだ同じ名前の一部が見られるのはMocattaだけですね。肝心のN.M.Rothschild & Sonsはもはやフィキシングのメンバーでなくなってしまいました。ロスチャイルドがゴールドマーケットから撤退するなど、20年前には考えられなかった ことです。ここ10年の時の流れは、過去100年の流れを大きく越える変化をマーケットにもたらしています。
以上
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